真宗大谷派西敬寺

いつかは死ぬからこそ、なにかやろうと思う

もしかしたら、ここで、こんな異議を唱える人もあるかもしれません。「自殺がばかげていることは認める。けれども、どの人にもいずれ自然死がおとずれるという事実があるだけでも、人生そのものが無意味になるのではないか。自然死という事実によって、われわれの人生の行ないはすべてはじめから無意味だったと思わざるをえないのではないか。どっちみち、すべては滅びてしまうのだから。」

このような異議に対して、逆に、つぎのように問い返すことで答えることができるかどうかやってみましょう。私たちが不死の存在だったらどうなっていたか、と自分の胸にきいてみましょう。するとその問いにこんなふうに答えることができます。私たちが不死の存在だったら、私たちはなんでもできただろう、しかしまたきっとなにもかもあとまわしにすることもできただろう、と。というのも、あることをまさにいまするか、それとも明日にするか、あさってにするか、一年かけてするか十年かけてするかというようなことは、全然問題にならないだろうと思われるからです。死というもの、終わりというもの、さまざまな可能性の限界がなくなることによって、あることをまさにいま行動にうつす理由、ある体験にまさにいま没頭する理由がなくなるのです。なんといっても、時間はある、私たちには時間は無限にたっぷりあるでしょうから。

けれども、私たちは、いつかは死ぬ存在です。私たちの人生は有限です。私たちの時間は限られています。私たちの可能性は制約されています。こういう事実のおかげで、そしてこういう事実だけのおかげで、そもそも、なにかをやってみようと思ったり、なにかの可能性を生かしたり実現したり、成就したり、時間を生かしたり充実させたりする意味があると思われるのです。死とは、そういったことをするように強いるものなのです。ですから、私たちの存在がまさに責任存在であるという裏には死があるのです。

長生きしただけでは意味のある人生にはならない

そう考えると、どれだけ長生きするかということは、本質的にはまったくどうでもいいことだということがはっきりするでしょう。長生きしたからといって、人生はそれだけではかならずしも意味のあるものにはならないのです。また、短い生涯に終わっても、ずっと意味のある人生だったかもしれません。あるひとりの人の自伝を判断する基準は、その自伝を叙述した書物のページ数ではなく、もっぱらその書物が秘めている内容の豊かさだけなのです。

ついでに、もう一つの問題にも触れなければならないでしょう。それは、子孫を得なかった人の人生が、もしかすると、子孫を得なかったというだけで無意味になる可能性があるのかという問題です。それに対する答えはつぎのいずれかになるでしょう。

①「人生、個人の生に意味がある」

この場合、子孫を得なくても、子孫を得て自分の生命を生物学的に「永遠化」するという方法に頼らなくても、人生にはかならず意味があるのです。ついでにいうと、子孫を得ることで自分の生命を生物学的に 「永遠化」するなどということは、まったくの幻想です。

②「個人の生、ひとりひとりの人間の人生に意味がない」

この場合、ただ子孫を得て人生を「永遠なもの」にしようとしても、人生が意味のあるものになることはけっしてありえないでしょう。というのも、それ自体「無意味な」ものを永遠化しても、それ自体無意味だからです。

一回きりの人生の重み

以上のすべてのことからわかるのは一つだけです。つまり、死は生きる意味の一部になっているということです。先にお話した運命や、人間の運命的な苦難、そしてそういう運命にある人間の苦悩が生きる意味の一部になっているのとおなじです。苦難と死は、人生を無意味なものにはしません。そもそも、苦難と死こそが人生を意味のあるものにするのです。人生に重い意味を与えているのは、この世での人生が一回きりだということ、私たちの生涯が取り返しのつかないものであること、人生を満ち足りたものにする行為も、人生をまっとうしない行為もすべてやりなおしがきかないということにほかならないのです。

けれども、人生に重みを与えているのは、ひとりひとりの人生が一回きりだということだけではありません。一日一日、一時間一時間、一瞬一瞬が一回きりだということも、人生におそろしくもすばらしい責任の重みを負わせているのです。その一回きりの要求が実現されなかった、いずれにしても実現されなかった時間は、失われたのです。「永遠に」失われたのです。しかし逆に、その瞬間の機会を生かして実現されたことは、またとない仕方で拾われて現実になったのです。それが過去のことになると「おしまいになった」ように思われますが、それは、ただそう思われるだけにすぎません。つまり、ほんとうは、ちょうど「しまってある」という意味でおしまいになったのです。この意味では、過去のことになったというありかたは、もしかすると、存在一般のうちでもっとも確かな形式でさえあるのかもしれません。そのように拾われて「過去のこと」になった存在に、それこそ「うつろいやすさ」はもうなんの手出しもできないからです。

たしかに、生物学的に見た人間の生命、肉体的な生命は、はかないものです。肉体はなにひとつのこらずなくなってしまいます。そうだというのに、どれだけたくさんのものがあとにのこされることでしょう。肉体がなくなってもなくならず、私たちが死んでもなくならないもの、私たちの死後もこの世にのこるのは、人生のなかで実現されたことです。それは私たちが死んでからもあとあとまで影響を及ぼすのです。私たちの人生は燃えつき、のこされるのは、実現されたものがもっている効力だけです。その点では、ちょうどラジウムに似ています。ご存じのように、放射性物質には寿命がありますが、ラジウムは、その生涯のうちにどんどん放射エネルギーに転換されて、二度と物質には戻りません。私たちが世界の内に「放射している」もの、私たちの存在から放射されるさまざまな「波動」、それは、私たちが死んで私たちの存在そのものがとっくになくなっていてものこるものなのです。

簡単な方法、トリックといってもいいような方法で、私たちはその瞬間瞬間にどれだけ大きな責任を負っているかをはっきりと自覚することができます。その責任に気づいた人は、ただ震えるしかありません。けれども、その人は結局なにかしら喜びをおぼえるのです。その方法というのは、一種の定言命法です。ですから、カントの有名な格率とおなじような形式で、「あたかも……のごとく行為せよ」という公式でもあります。それは、「あたかも、二度目の人生を送っていて、一度目は、ちょうどいま君がしようとしているようにすべて間違ったことをしたかのように、生きよ」といったところでしょう。

『それでも人生にイエスと言う』V・Eフランクル